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信長の引っ越し

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今週のお題は「引っ越し」ですね。

ちょうど思い出した偉人のエピソードがあるので、今日はそれをお題に絡めて。

 

コンサルティングの仕事をしていると、分かりやすい例えを挙げて、クライアントさんに伝えていくことが重要になります。

人は理論や理屈を並べられても、実感が湧きにくいものですから、具体的にイメージしやすい実例を挙げて説明することは、コミュニケーションの有効な手法です。

そこでよく歴史的な偉人や著名人のエピソードが役に立つので、おもしろい話があると記憶し、深掘りして調べるのですが、これもそういう知識の蔵の中にしまってある話です。

 

戦国時代の英傑、武将の中で、誰もが知っている織田信長の逸話。

 

信長は、その生涯で何度も居城を変えています。

鎌倉、室町と続く武士の世では、土地と武士の繋がりは切っても切れないもので、日本各地の領主である戦国大名は、自分の領地の中心である居城を変えることはあまりありませんでした。

例えば、信長と同時期に生きた甲斐の武田信玄も、越後の上杉謙信も、ひとつの城を生涯の居城にして、どれほど領地が拡大しても引っ越していません。

 

そんな中で、戦国の風雲児、革命児と言われた織田信長は、その時々で政治、軍事、経済を発展させるために合理的な判断をし、領地経営の要となる居城を変えてきました。

まるで企業が成長するフェーズに合わせて、本社を移転していくかのようなやり方です。

 

さて、ある時、清州を居城としていた信長は、唐突に北にある二ノ宮山という場所に引っ越すと言い出しました。

 

当時の信長は、有力な大名・今川義元桶狭間の戦いで破り、一躍世の中に名を上げ、隣国・三河徳川家康と同盟を結び、急拡大していました。

その間に、居城の清州の城下町を経済的にも発展させ、本拠地として整備しています。

せっかく発展した清州から、二ノ宮山に居城を移すことに家中は動揺します。

 

尾張を統一し、東の雄・今川を破り、次の目標は北の美濃を手に入れることだった信長にすれば、侵攻拠点として北に移動するというのは、ある意味当然ではあったのですが、二ノ宮山という場所は清州から25キロほど北上し、さらに標高300メートル弱の山頂を中心に丘陵が連なる地形。

それまでの居城だった清州は、濃尾平野にある平地でしたから、いまと違って自動車も何もない時代に人力だけで引っ越しするのは大変、しかも山間の土地ですから暮らしも不自由になるでしょう。

信長の家臣、領民は、突然の殿様の言葉に唖然とし、当然不平不満が噴出します。

 

とうとう重臣たちは、信長に「おそれながら」と、清州から二ノ宮山への移転を反対。

すると、信長は「……であるか。ならば小牧山くらいにしておこうか」と、引っ越し先を清州と二ノ宮山の中間、しかも標高は二ノ宮山の三分の一で、麓には平地が広がる小牧山に変更しました。

これを聞いて、家臣、領民はホッと胸を撫で下ろし、しかもワンマンの殿様が皆の意見を聞き入れて、移転先を変えてくれたというので、張り切って小牧山に引っ越しました。

 

この話は、信長の家臣であった太田牛一が記した『信長公記』にあり、牛一は「最初から小牧山に移ると言うと、住み慣れた暮らしやすい清州から他に引っ越すのは嫌だと皆が不満に思うだろうから、小牧山よりも条件の厳しい二ノ宮山という場所を先に上げて、落としどころを小牧山にすれば、皆が素直に納得すると考えた信長公のアイデアだ」というようなことを書いています。

 

同じことでも伝え方次第で、人を頑なな態度にもするし、逆に素直に聞いてもらえるようにもなる。

そうやって、人の心を掴むことで、信長は天下を掴んだという一端が見えるエピソードです。